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言われるままになって育つこと

皆さん、お久しぶりです。
しばらく放置気味でしたが、
読書ノート的に少し更新しておきます。

今回は、女子少年院元法務教官である、魚住絹代さんの著作からです。
著者はこの中で、権威主義的な子育ての問題を指摘しています。

 ■まじめな女の子が突然、少年院へ
いつ頃からでしょうか。ふつうの女子高校生や中学生が突然、少年院に入ってくるようになりました。彼女たちの事件のほとんどは覚醒剤です

街を歩いていたら「いいやせ薬があるんだけど」「眠らなくていい薬あるよ」などど、言葉巧みに声をかけられ、受験勉強のために、あるいはダイエットにと気軽に購入してしまったと、彼女たちはいいます。

それが覚醒剤だとわかるのは、クスリが切れたあとの倦怠感と、からだがクスリをほしがるようになってからのことです。

彼女たちに共通するのは、純粋培養されたようなまじめな子であることと、友だちが少ないということです。同年代の子よりも大人びた、むしろしっかりしている印象もあります。しかし、その心の奥には、友だちとうまくつながれない孤独がありました。

そんな寂しさを抱えている彼女たちが、大人からやさしく声をかけられ、悩みを聞いてもらえると、世間ズレしていないがゆえに「親切にしてもらった」と恩を感じ、信じてしまうのです。
子どもは、見かけは大人のように見えても、内面は未発達で判断も未熟なのです。特に、まじめで、言葉も丁寧な子は、物事をよく理解しているように一見思われがちです。

しかし、こうした事件に引っかかる子どもに見られるのは、教科書のように物事を理解することはできても、応用が効かないことです。知識はありますが、人の心の動きに鈍感だったり、駆け引きにうとく、だまされてしまうのです。

もうひとつの大きな特徴は、自分の気持ちがはっきり言えなかったり、自分の考えが曖昧だったりすることです。言葉巧みに近づいてくる人から誘われると、それに「ノー」と言うことさえできないのです。そして、思いもかけない非行に引きずりこまれることもあります。

彼女たちの背景を見ていくと、親に支配され、親の言われるままになって育っているケースが非常に多いです。また、親子間でも会話が乏しかったり、心の交流が少なかったりする傾向も見られます。日頃から自分の気持ちや感じたことを表現する訓練がなされていないのです。それでは、自分の考えが育つはずもありません。

相手の思惑どおりにふり回されたり、甘い言葉にだまされてしまうことになります。そのあげ句に、気がついたら覚醒剤を打たれて売春をさせられていたということも、珍しいことではないのです。現実に、良家のお嬢さんでも、こうしたケースが起きています。

対人関係や物事の対処の基本は、親子関係にあります。親の思いどおりに育てようとすることは、悪い大人の思いどおりにもなりやすい子どもにしてしまう危険があるのです。

親の考えにただうなづくのではなく、自分の考えや「イヤだ」ということをはっきり意思表示できるのは、とても大切なことなのです。

日頃から、自分の感じたことや考えを言葉にして伝えあいましょう。子どもが間違ったことを言っているからと、頭ごなしに否定してはいけません。むしろ、親と違う考えを言えることは、喜ぶべきことなのです。それは、自分の考えをしっかりもち、自分で自分を守れる人に育つ一歩なのです。
大人ができる大事なことは、子どもが自分で判断していける力を手助けしてあげることです。

―母親が知らない娘の本音がわかる本―魚住絹代著 より


親の思いどおりに育てようとすることは、悪い大人の思いどおりにもなりやすい子どもにしてしまう危険があると、著者は指摘していますが、創価学会(その他カルト含む)の思いどおりにもなりやすい子どもにしてしまう、ということでもあるのでしょう

※ただし、条件がそろったMCを受けると、そうでない人でもやられますので注意

創価学会について考えてみると、会員が組織に対して

組織の考えにただうなづくのではなく、自分の考えや「イヤだ」ということをはっきり意思表示

できるか、というとなかなかそうではないです。

しかし、組織と違う考えを言えることは、喜ぶべきことなのです
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創価学会のルール意識

日本社会の力学について書かれた本を取り上げます。
結局は創価学会も日本社会の延長にあって、同じような力学がある。

その農村では、村民の中の一人を候補者として立て、隣村から立つ候補者をおさえ、絶対当選をめざして、とくに中堅の村民たちを中心として、あらゆる手段を使って全力投球するかまえでのぞんだ。しかし、彼らとしても、選挙違反にあげられることは極力さけなければならない。そこで、いったいどのあたりまでならばあげられないですむかの判定が問題となった。

この場合、彼らにとって、国の選挙違反の規則は問題ではなかった。なぜならば、その規則は往々にして無視されるのが、その地方の慣習であるからである。要は、その規則からどのくらいまで出ても選挙違反としてあげられずにすむか、ということである。

そこで彼らは、その地方の選挙のベテランである、また日頃尊敬する有力者のところに相談にいったのである。そのボスが彼らにいったことは、「みんなのやっていることならよい。みんながやらないようなことは決してしないように」ということであった。

ここで使われたみんなとは、いうまでもなく、その地方の同じように選挙運動する人たちということで、本論でいう隣接諸集団にあたり、それらの動きにそって動くように、ということで、実に日本社会の動的法則をよくあらわしている。

あまりにも派手に行われる彼らの買収・饗応などを目撃した当地駐在のお巡りさんが、「やい、やい、そんなことをしたらいかんじゃないか」と注意すると、「やあ、少しやり過ぎたかなあ」という反応が返ってくる。法に照らせば不正を行っているわけであるが、彼らのシステムでは、全体の動きより自分たちだけが少し出てしまったのはよくなかったなという反省である。
 タテ社会の力学 (著者:中根千枝)より



このような社会において、国家の法規制、ルールというのは生活感覚から遠い存在であって、それに違反することがいけないという感覚はもちづらい。むしろ、ある程度はみ出して行動するのが当然ということになっている。ところがルールを軽視するからといって無秩序になるわけでもない。どのぐらいはみ出して行動するのがいいのか、周囲の行動を基準として細かく決まってくるからだ。ルールによってというより、出すぎた杭が打たれることで、秩序が保たれていくことになる。

これはこれで、機能する仕組みなんだけど、実際に行動する個人の責任感は希薄になっていく。やり過ぎた場合、悪いといってもあくまで程度問題であって、やっていることは自体はみんな同じだと感じるから。

もちろん今日の記事は、創価学会が組織的に買収饗応しているという話でなくて。

選挙のないときでも署名依頼を時々したり、選挙が近づくと公明党のアピールをしたり、投票依頼や投票所への送迎の申し出をしたり、投票に行ったかどうかを訪問や電話で尋ねたり、はたまた東京都議選の応援のために上京までしたり、という内容では(多くの相手とって迷惑行為でも)罪悪感を感じることは、難しいのだろう。

インターネット的に言えばスパムそのものだけど。そもそも迷惑だと思ってない場合もなくはないが、うっすら迷惑だろうと思いつつも、「選挙のときは少々の迷惑行為は当たり前だよね」という場合の方が主流だろう。何しろみんな(学会の他の地区や他党の支援団体、その他の団体)ある程度はやってるんだからと。

今月の読書

これがいいかも。

タテ社会の力学 (講談社学術文庫)タテ社会の力学 (講談社学術文庫)
(2009/07/13)
中根 千枝

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日本の中でも特異な存在に見える創価学会でさえ、

こういった、

日本社会の力学の上に成り立っている。

「日本的モラリズム」と創価学会

前回『創価学会さまが許さない!』の続きです。

このように、「システムの話」を「モラルの話」にしてしまうということは、
モラルに関する感情論が先行して合目的的な「システム改革」が阻害される、という状況を日本で蔓延させている。
実際に「日本的モラリズム」は、あらゆる場面で日本人によるマネジメントを阻害しているのだ。

「日本的モラリズム」という文化の中では、こうした(マネジメント)プロセスの中で必要な「現状把握」「原因特定」「目標設定」「手段選択」などのあらゆるステップで、「モラル的に見て正しいか?」という発想が先行し、ロジカルな判断・行動ができなくなる。

具体的な現象としてよく起こるのは、 「システムの不備」がすべて「関係者のモラル感覚や意識や心」のせいにされてしまうということだ。

言うまでもないが、戦争中の「精神を鍛えればアメリカに勝てる!」という「精神主義」も「日本的モラリズム」の一側面であり、これがロジカルなシステム整備を阻害して、日本を敗戦に導いた。

そのような状況で多様されるキーワードは、「ケシカラン」とか「かわいそう」とか「心がない」とか「意識の問題だ」といった「モラルに関わる概念」だ。
 ―「世間様が許さない!」岡本薫 著

アレですね。
学会幹部に対して「こういう仕組みはオカシイから、こう変えたほうがいいんじゃないか」などと言ったら、「おまえの『モラル感覚や意識や心』が悪いんだ」ということになると。「(師弟不二の)心がない」といったような感じでしょうか。

著者は、こういった事が起こるのは「日本的モラリズム」が原因だと指摘しています。

■「日本的モラリズム」がマネジメントを阻害する

1.「現状把握」の阻害
 各主体ごとに利害の異なる「損得」の問題が、全員共通の「善悪」の問題にされてしまうことが多い。

これは創価学会にお任せ!といって言いぐらいの話ですね、非信者など会員外の人のことも、決めつけられてしまいがちです。

2.「原因特定」の阻害
 日本では原因を人の「モラル感覚」(心・意識など)に求めてしまうために、正しい原因特定ができないことが多い。

創価学会においては、問題の原因は「信心が足りない」「師弟不二が~」という型で、心に求めていますね。

3.「目標設定」の阻害
 モラルで考えてしまうと具体的目標設定が出来なくなる。


これはちょっと「該当せず」というところでしょうか?数値目標は多用していますし。
いやいや、考えてみれば一番大事な「福運をつける」という事に、具体的な目標設定がないですね。といっても、福運の憑き具合を観測する検査方法や、確認する指標がそもそもないですが。そもそも実在しませんし…

「日本的モラリズム」の文化を持つ日本で「目標」と呼ばれているものには、人々のモラル感覚にとって耳当たりの良い「美辞麗句」を並べた「抽象的なもの」「方向性のみのもの」が多い。これらはスローガンではあっても、目標ではないのだ。

政府部内で感染症対策を担当していたある官僚は、「特定の病原菌による感染をゼロにするとはできるが、それには膨大な経費がかかる。通常は、予算を考えながら目標感染率をセットするのだが、本来は『この率でいいでしようか?』と国民の意思を確認すべきだ。しかしそんなことを言ったら、日本では『その率の人は感染してもいいと言うのかっ!』と言われてしまうので、やむなく『二度と感染者を出さない方向で努力しています』としか言えない」という悩みを漏らしていた。
 ―「世間様が許さない!」岡本薫 著

「美辞麗句」を並べた「抽象的な~」「方向性のみの~」となれば、創価学会もかなりやってますよ。

4.「手段選択」の阻害
手段の適合は「目標を達成できるか」という点のみから判断されるべきものだが、モラルで考えてしまうとそれができなくなる。「特定のモラル基準から逸脱しない」ということも目標の一部となり、ロジカルな手段選択を阻害する。日本人の多くは、「その手段は良いか悪いか?」を考えるとき、「目標を達成できるか?」ということよりも「モラル的に正しいか?」を考えてしまう。

創価学会は、一見手段を選ばない姿勢に見えるかも知れません。

実際には、モラルで考えてしまった結果、「無意味な達成の仕方」を取る場合が多いですね。聖教新聞の多部数購読などですね。目標達成のために、目標そのものの目的に役に立たない方向での努力が頻繁になされたり。

しかし、たとえそうであっても、「特定の(創価学会の)モラル基準から逸脱しない」という条件は満たすことになるわけです。
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ねま

Author:ねま
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